Ⅱ.日本国憲法全般についても、その生みの親は日本人





日本には明治の自由民権運動以来の民主化運動があり、民主的な憲法案も数多くありました。その運動の流れを組む人たちが第二次大戦後すぐ憲法研究会を結成し、自由民権運動の植木枝盛の作った「東洋大日本国国憲按」なども取り入れて、昭和201226に「憲法草案要綱」(国民主権、儀礼的天皇=象徴天皇、生存権や男女の平等も含んだ様々な人権、が規定されていた)を発表しました。


 


また、全権大使として1928年パリ不戦条約締結に係った、戦前の幣原外交=国際協調外交の立役者・戦後の日本国憲法起草作業開始時の総理大臣、幣原喜重郎の口から1946124日、「戦争放棄・戦力不保持」(9条)がマッカーサーに対して提案されました。


 


上記の「憲法草案要綱」や「戦争放棄・戦力不保持」の幣原提案をGHQ(連合軍総司令部)が基本的に追認・補強する形で作られたGHQ草案を基に、日本人が更に修正・追加を施した結果、今の日本国憲法が誕生しました。(憲法草案要綱にあった生存権はGHQ草案では消えましたが、憲法研究会のメンバーでもあった衆議院議員森戸辰男の発案で、25条として盛り込まれました。)


 


このように日本国憲法は、明治の自由民権運動以来の日本の民主化運動の流れをくむ日本人たちが生みの親で、GHQが産婆役を務めたことで誕生しました。その誕生過程を記録した歴史的ドキュメントは日米に散在しています。以下にそれをご紹介しましょう。


 



マイロ・ラウエル証言テープ(米トルーマンライブラリー 蔵)

マイロ・ラウエル報告書(米スタンフォード大学 蔵)

GHQ民政局法規課長だったマイロ・ラウエルが日本人による憲法研究会が作った憲法草案要綱が日本国憲法の原型であることを証言。「私たちは確かにそれを(「憲法研究会」の案のこと)使いました。意識的に、また無意識的に」(マイロ・ラウエル証言テープより)


憲法研究会の作った「憲法草案要綱」(国立国会図書館 蔵)

高野岩三郎、鈴木安蔵らの作った憲法研究会から1945年暮れに発表された憲法草案。これは国民主権、人権、言論・思想の自由など民主的な「新しい憲法案」として、マイロ・ラウエルが証言したように、GHQ草案に大幅にとりいれられた。

 

この憲法草案要綱には、国民主権、儀礼的代表としての天皇(=象徴天皇制の原型)、生存権も、言論の自由などの人権保障もすでに書かれていた。

 

(この草案要綱は、明治時代の自由民権の運動を推進した土佐立志社・植木枝盛が作った「日本国憲法(草稿本)」「日本国国憲案」「東洋大日本国国憲按」なども大いに参考にして書かれた。それら明治の憲法案は、すでに、国民主権も、儀礼的存在としての天皇も、言論の自由などの人権保障などが書かれている、民主憲法だった。)

 

これをもとにGHQ草案は書かれた。GHQ草案には生存権は書かれていなかった。日本人の議会メンバーがGHQ草案について討議し、いくつかの条文に修正を加え、新たな条文(25条)を加え生存権を復活させるなどして、現在の日本国憲法ができた。この「憲法改正草案要綱」は現在の日本国憲法のプロトタイプと言っていいだろう。


衆議院改正憲法小委員会速記録(国立国会図書館 蔵)

いわゆる芦田修正など、9条に関する様々な議論がなされているほか、社会経済学者森戸辰男が「日本の国民は、国民として、生活に対する最小限度の権利を有することがはっきりでるということが、こんにち、憲法を作る場合には特に必要ではないかと、私は思います」と25条を発案。



⑭「東洋大日本国国憲按」国会図書館 牧野伸顕関係文書 書類の部 89


明治の自由民間運動の活動家、植木枝盛の起草した最も民主的・急進的な私擬憲法として知られており、特徴として、天皇大権・人民主権・自由権・一院制・抵抗権・革命権・不服従権・連邦制などを定め、議会の権限が非常に強いことが挙げられる。また、全ての人民の平等が規定され、女性差別がない。


その後、長くこの「国憲按」の存在は忘れ去られていたが、1930年代、明治文化研究会などで明治憲法制定過程の実証的研究を進める鈴木安蔵らによって他の私擬憲法とともに再発見され、鈴木は、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)12月、自らが参加する憲法研究会が新憲法案「憲法草案要綱」を作成・公表した際に、土佐立志社による「日本憲法見込案」などとともに「国憲按」を参考資料として使用した。同「要綱」はGHQによる憲法草案のベースとなったため、東洋大日本国国憲按は同草案を原型として公布された現行日本国憲法の間接的源流とみることができる。